コラム

日銀総裁人事についての補論

 3月7日、政府は3月19日に任期満了となる日銀総裁、副総裁の後任候補者を国会に提示した。総裁候補には武藤敏郎現日銀副総裁、副総裁候補に白川方明京大教授、伊藤隆敏東大教授が示された。
 今回の人事での焦点は財務省事務次官経験者である武藤敏郎氏の総裁昇格が国会で同意されるかどうかである。政府、財務省はあらゆる手段を用いて武藤氏の総裁昇格実現に向けて行動している。また、大多数のマスメディアが財務省の世論誘導活動に協力している。

 民主党を軸とする野党は参議院で、中長期の視点から武藤氏の総裁昇格に不同意するべきである。重要な理由が三点ある。
 第一は日本銀行の財政当局からの独立性を重視すべきことだ。日本は第2次大戦に際して巨額の戦費を日銀による国債引受けで調達し、戦後に悲惨なインフレを招来した。政府債務は帳消しとなり、預金者は甚大な損失を蒙った。
 戦後の主要国では中央銀行の財政当局からの独立性が最重要視された。しかし、日本では日本銀行を政府の支配下に位置付ける旧日本銀行法が残存し、1998年に改正法が施行されたものの、独立性の規定には強い曖昧さが残されている。

 日本政府の債務残高は主要国と比較しても突出して巨額であり、財政当局にインフレ誘発による政府の実質債務残高解消の強い誘因が存在している蓋然性が極めて高い。
 ドイツ、米国、欧州中央銀行などで財政部門幹部を経験した人材が中央銀行総裁に就任している例が存在しているが、日本とは事情がまったく異なる点に留意しなければならない。これらの国では法律、慣例、政策決定メカニズム等のなかで中央銀行の独立性が完全に確保されている。そのため、財政部門の幹部を経験した者が中央銀行総裁に就任しても中央銀行の独立性が脅かされるリスクが存在しない。

 しかし、日本の場合には政策決定の最高機関である日本銀行政策委員会の委員選任方法を含めて、日本銀行の独立性を完全に担保する制度および慣行が確立されていない。今回、副総裁候補たされた伊藤隆敏氏も財務省との距離が近いことに留意が必要である。伊藤氏が提唱するインフレ・ターゲティング政策はインフレ誘導策に転化するリスクをはらむものであり、中長期的な通貨価値維持が脅威にさらされるリスクは大幅に高まると判断せざるを得ない。

 また、日本では財務省出身者が財務省を離れても「財務一家」、「大蔵一家」の一員として財務省と連携して行動していることは周知の事実である。財務省出身の日銀総裁は財務省と連携して政策運営にあたる蓋然性が極めて高い。

 中長期の視点で通貨価値の維持を図る視点から、財務省出身者を日銀総裁候補者から排除することが、日本の通貨価値維持を担保するセーフティーネットと考えるべきである。

 第二は日本の構造改革の最大のテーマが「財務省を中核とする官僚主権構造の根絶」であることを踏まえるべきことだ。構造改革が叫ばれて長い時間が経過しているが、財務省は日本政策投資銀行、国際協力銀行、国民生活金融公庫、あるいは大手地方銀行頭取などへの天下り利権を温存し続けている。日銀総裁ポストは財務省からの天下り利権の象徴的最高ポストである。
 官僚利権の中核に位置する「天下り利権根絶」を推進するにあたって財務省から日銀総裁への天下りを遮断することは、極めて重要な意味を持つ。
 財務省は財務省の天下り利権温存の視点から、日銀総裁ポスト獲得に省をあげてエネルギーを注いできた。武藤氏の総裁昇格案の野党への根回しにあたっても、財務省次官経験者が水面下で活発に行動したことが伝えられている。構造改革を前進させる意思が存在するなら、財務省次官経験者の日銀総裁就任を排除すべきである。

 第三は日銀総裁に高度の専門能力が求められる点だ。日本経済および金融政策の運営に大きな困難を伴わない時代においては、日銀総裁に必ずしも高度の専門能力は求められなかった。また、旧日銀法下においては日銀プロパーから構成される日銀理事会が実質的な政策決定機関として機能しており、日銀総裁の直接的な政策能力が求められる局面は限られていた。
 しかし、現在の日銀総裁には複雑かつ激動する世界の経済金融情勢に対する高度の専門能力が強く求められている。欧米政策当局トップと連絡協議するコミュニケーション能力も非常に高いレベルで求められている。

 武藤氏は法律、行政の専門家ではあるが、経済学、金融論,経済政策のプロフェッショナルとしての蓄積は必ずしも十分とは言えないと判断される。日銀総裁に就任するための第一の条件は、専門領域における高度な専門能力である。諸外国で財政当局幹部を経験して中央銀行総裁に就任した人物が存在する場合でも、この条件は確実にクリアされている。

 日本における財務省の保持している権力は突出している。巨大な財政資金の配分を決定する予算編成権、国税調査権、租税政策に関する政策立案権、国有財産の管理および運用の権利、金融庁を通じての金融業界に対する支配権、為替市場への介入権、証券取引の監視権限、経済政策の実質的な決定権限など、国家権力の主要部分を財務省が集中して保持し、財務省はその権力の維持増大に努めている。
 マスメディアに対しては、財務省が政府決定のニュースにおける最大のニュースソースであることを活用してマスメディアを従属させると同時に、公正取引委員会トップポストを握っていることを活用して、新聞等の再販価格維持決定権を材料に新聞メディアをも支配している。

 政府と財務省は支配下にあるマスメディアを総動員して、日銀総裁人事が不同意となれば、「金融市場が混乱する」、「国際社会からの信用を失う」、「民主党が日銀総裁人事を政争の具にしている」のプロパガンダを流布し、露骨な世論操作を実行している。

 参議院で野党が多数を確保し、ガソリン税の上乗せ税率適用期限再延長の増税法案の参議院での取り扱いが焦点となっている。このなかで、最終的に自民党と民主党の党首会談が開催され、租税特別措置法の修正と引き換えに日銀人事に民主党が同意するとの密約が存在しているとの情報が伝えられてもいる。
 今回の問題がこのシナリオ通りの決着となれば、すべてのシナリオが密室で練られ、シナリオ通りの茶番が演じられていることの証左となる。民主党が自民党との談合政治に堕したと判断せざるを得ない。「55年体制」に代わる「05年体制」が成立することになる。このとき、日本の真の構造改革の望みは断たれることになる。政権交代可能な2大政党制確立も不可能になる。民主党は政府の世論操作活動を糾弾し、困難を克服して正しい王道を歩まなければならない。

2008年3月7日
スリーネーションズリサーチ株式会社
植草一秀

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